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Future Music With Future VOICES・アルバム情報 ~New!~

『ピアノロールの神』が降臨する・・・
機械仕掛けの声が歌う意味とは?
合成音声と自動演奏機械、その歴史と未来を俯瞰する楽曲集

iTunes楽曲販売ページはこちら(試聴可能)

自作解題つき歌詞カード(36p)ダウンロード

使用歌声ライブラリ:
Vocaloid: (YAMAHA) CYBER DIVA, VY1V4 (AHS) 結月ゆかりV4, SF-A2 開発コードmiki V4
Vocal Synthesizer: (Plogue Art et Technologie) chipspeech
Vocoder: (Apple) Logic Pro EVOC20
リリース:2016

<自作解題>

このアルバムについての能書きをつらつらと書きます。けれど、まずは楽曲をお聴きになった上で、それでもなお、読んでみたいと思うときにお読みください。今回も前アル バムの能書きと同じく、わけのわからないことばかりを書いてしまった気がします。

前アルバム「神仏習合」

このアルバムもまた、前アルバム「神仏習合」に続き、ボーカロイドという新しい歌唱楽器をどのように捉えるのかを主題としています。

「神仏習合」では、コンピュータの歌唱に人間ではない神や仏の声としての立ち位置を与えました。それは人類が培ってきた呪術的な声の伝統を現代のコンピュータの歌唱の中に再構成しようとする試みです。「神仏習合」の各楽曲は、ヒトの歌唱声域を超えて声域を拡大し、ヒトにあっては歌唱困難な複雑な和声を組み立てるという合唱の形を志向したものになりました。けれども、神仏の彫像がそうであるようにそれらはまだヒトに似た形をしています。

機械の歌唱をヒトに似せるということは、機械の歌唱の表現の幅を拡げることにはなるでしょう。けれども、そのような表現は表面的なギミックでしかないのかもしれません。その歌唱を機械が歌っているという事実を知らされていなければ、少し風変りな陳腐な歌でしかないのかもしれません。

パイプ・オルガンという巨大装置

だとするとき、機械の歌唱の中核には何があるのか。機械の歌唱から人の作り出す声や言葉といった要素を除くとき一体なにが残るのか。そう考えるとき、声楽を伴わない音楽である「器楽」が私の意識の中に想起されます。器楽の中でもとりわけ、パイプ・オルガンという楽器を強く想起します。「Organ」なる語は「Organization:組織の意」を語源とします。組織たるオルガンは、楽器であると同時に機械でもあるのです。

鍵を押すことで音を出すという機構の歴史は古く、オルガンの原型は紀元前にまで遡ることができるようです。たいていの民族楽器は、鍵盤楽器の直前の形である、管を束ねた笛(パンフルートや笙など)か、音高をもつ打楽器(木琴など)の段階で止まるのですが、西洋だけはなぜか、鍵盤楽器という機械的な楽器の開発に情熱を注ぎます。

その集大成とも言えるのがパイプ・オルガンで、それは、とてつもなく複雑な機構を持つ巨大な怪物のような楽器です。大勢の人間が作り出す管弦楽の音をたった一人でも演奏できるようにするという途方もない企ての中にある楽器とも言えます。非キリスト者をキリスト教に改宗させるに足る圧倒的な音響を作ろうとする楽器のようにも思えます。

そのようなパイプ・オルガンは、どのように考えても人間的な楽器ではありません。鍵盤の操作はヒトの肉体が歌や手拍子を奏でるやり方とは遠く離れ、その音色も剛体である管の共鳴という、くねくねと変形する声道の共鳴とはほど遠いものです。

パイプ・オルガンの非人間的な音響は、長い年月をかけ、やがてはキリスト教の神のイメージと結びついていきます。非人間的な音であるからこそ、そのような立ち位置に落ち着いたのかもしれません。これは、私が前アルバムでコンピュータに神や仏の歌を歌わせたことと重なる部分があるような気がするのです。

多くの民族が鍵盤楽器に興味を持たなかったのは、その音色が機械的に過ぎて平板で面白みがなく感じられたからなのかもれしせまん。けれど、鍵盤楽器は音色の面白みを失う代わりに、さまざまな高さの音を複雑に重ね合わせることを容易にしました。鍵盤楽器の発達と相まって、五線譜が考案・実用化されると、西洋音楽は音の複雑な重ね合わせという新しい地平の開拓にその興味を集中していきます。

そうした背景にあって、西洋の楽器の音の多くは、他の民族音楽の楽器の音色と比べて、平板な音色となるように改良されました。たとえば、同じ笛であっても、西洋の笛は非西洋の笛より遥かに単純な音色をしています。日本の尺八は楽音(音の高さを作り出す音の成分)の他に、噪音(音の高さを作らないノイズ様の音の成分)を多く含みますが、西洋のフルートやリコーダーなどでは、楽音の成分が多く含まれ、噪音の成分はあまり含まれません。

日本の伝統的な楽器は、多彩な噪音を伴う音色や音色の変化の中にさまざまな雰囲気や感情をまとわせようとしてきました。けれども、西洋の楽器はその反対に、それらの要素をそぎ落とすように発達します。噪音を多く含む音を複雑に重ね合わせていくと、噪音ばかりが際立つようになり、音の重ね合わせの妙が把握しにくくなってしまうからなのでしょう。西洋音楽は、その音色の中にではなく、その音の複雑な並べ方の中に、さまざまな雰囲気や感情をまとわせようとしてきたのかもしれません。

器楽とコンピュータの歌唱

そのような西洋器楽史の延長線上に、コンピュータによる歌唱を捉えることができないか。今回のアルバムは、そのような企図の中にあります。その企図の中核は、コンピュータの歌唱によるコンピュータらしい表現の形を試みることです。具体的には、以下のような要素を志向しています。

1つは、ボーカロイドというただ1つの歌唱楽器によるのではなく、それ以前のコンピュータによる歌唱の声や、コンピュータの歌唱以前の技術であるボコーダーによる歌唱、あるいは録音されたヒトの声を同時に並列するということです。それらを同時に並べることにより、コンピュータの歌唱を相対化して重層的な奥行きを作ろうとしています。(ボコーダーについての詳細は、「1.Daisy Bell」に書きましたのでそれをお読みください。)

今1つは、それらコンピュータの歌唱に対して、その原音をそのまま使うのではなく、過度なエフェクト処理を行い、より奇妙な、より非人間的な歌声を作るということです。それがボーカロイドの歌唱なのかどうかの判別すらつかなくなることもためらわず、どれだけ面白い声が作れるのかを試しています。言い換えると、コンピュータの歌唱が人格を持たない(誰の声でもない)匿名性を持つ声であることを、さらに推し進めようとする試みです。

コンピュータ音楽とロマン主義の亡霊

現代の唯物論的な科学は、伝統的な旧来の宗教や神秘主義を「オカルト」という一括りの箱の中に格納してしまいました。けれども、芸術や見世物に心打たれるなどということは、どうにもオカルト的な神秘の中にある現象のようにも思えるのです。少なくとも、私の中に立ち上がるさまざまな心象といったものは、よくわからない不可思議なものです。

このアルバムにあっては、そのような個人の中に押し込められてしまった唯心論的な神秘性の素片を、コンピュータによる自動演奏の中に呼び起こそうとしています。コンピュータ1台で仕舞いまで作れるという利便性は、たった一人で仕舞いまで作れることを意味します。つまり、個人の抱くわけのわからない妄想でさえ、他者にも理解しうるかもしれない形に組み立てることができるということです。

古くは、完全な自作自演といえば、自作曲をギターやピアノで弾くとか、弾き語るといった独奏しかあり得ませんでした。けれども、20 世紀の後半には多重録音によりその幅が拡がります。そして、現代にあっては、コンピュータによる自動演奏により、たとえ楽器が弾けなくとも音を組み立てることができるようになっています。昔と比べて、はるかに立派な「独り言」を構築できるようになっています。

このアルバムは私の感じるなにかを、あたかも「独り言」のように、そのまま紡ごうとしています。それらは雑多な方向にちぐはぐに広がっているので、ちぐはぐな素片がちぐはぐなまま、束ねられています。コンピュータによる自動演奏という仕掛けが、私の中に彷徨うロマン主義の亡霊を呼び起こすのです。

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