VOCALOID 神仏習合・アルバム情報 Tweet
人ならぬ「異形の声」は、神か仏か 妖かしか
楽器「VOCALOID」のポテンシャルを解き放つ異色のコンセプトアルバム
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自作解題つき歌詞カード(36p)ダウンロード「人ならぬ声に歌わせる意義とは?」
価格:¥1,500(+税)
使用歌声ライブラリ:
- AHS 社 猫村いろは V4(Natural&Soft)
- 結月ゆかり V4(純・凛・穏)
- SF-A2 開発コード miki V4
題字・ジャケットデザイン:イマタニタカコ
リリース:2015/11/14
<自作解題>
このアルバムの目論みについて、その思考の流れを書いてみます。けれども、音楽にあってはたいてい、そうした能書きはあまり意味がないのです。まずはその音楽を聴いてみてください。聴いてはみたものの、なにかもう少し知りたいと思ったときには、これらの能書きをお読み頂ければと思います。(特段、なにも知りたくもないと思ったときには、そっとこのページを閉じると時間の無駄を省けます。)
西洋音楽と対峙するということ
西洋音楽という西欧で発展した民族音楽は、日本を含め、今や、全世界を覆い尽くそうとしています。現代における西洋文明の世界的な覇権は、近代西洋の合理主義に裏打ちされるものでありまして、西洋音楽もまた同じ仕組みによって広がっているのかもしれません。
西洋音楽には、楽譜や楽典といった音を扱う上で極めて便利な道具が用意されています。さらには、それらに基づいた和声法や対位法といった作曲の理論さえも提供されています。彼らは、こうした理論の開発に数百年もの年月をかけてきましたし、それらの理論は今もなお、更新され続けています。
日本の伝統音楽がそうであるように、世界各地に伝えられる民族音楽の多くは、師弟関係の中で口伝で伝えられるのが一般的です。なので、その習得には長い年月を要するものも少なくありません。他方、西洋音楽はその理論により、その技法をより簡単に習得できます。西洋音楽の驚異的な拡散の源は、おそらくそこにあるのだろうと思うのです。
けれども、簡単に習得できるということは諸刃の剣にもなります。誰もが習得できるのですから、単に習得しただけではその優越性は保証されません。すぐに横並びになってしまうからです。これは西洋文明についても同じことが言えそうで、西洋の「科学」もまた、きちんと学べばすぐに活用できます。21 世紀という時代は、西洋を学び終えた非西洋が西洋と対等に対峙できる地位を獲得しつつある時代なのかもしれません。
キリスト教の宗教音楽
西洋音楽の骨子たるキリスト教の宗教音楽は、キリスト教への信や知識が特段ない者が聴いたとしても、なにかしら受け止めてしまわざるを得ない圧倒的な迫力があります。少なくとも、私にはそのように感じられます。
たとえば、「ハレルヤ」を連呼する合唱。それはヘンデルの作曲したオラトリオ「メサイア」の中の「ハレルヤ・コーラス」でもよいし、黒人霊歌やゴスペルでもよいし、リチャード・ロジャースが作曲したミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の「アレルヤ」の女声合唱でもよいのですけれど、いずれにせよ、それらの音楽は、キリスト教の信仰についてさほど詳しくもない、通りすがりの私に対してもなにか迫ってくるのです。
「ハレルヤ」は「主を讃えよ」という意のヘブライ語で、ヘブライ語を母国語としない人々にあっても「ハレルヤ」と発音するのが慣例のようです。だから、これは一種の「呪文」とも言えます。そのように考えると、「ハレルヤ」はキリスト教の祭文(さいもん:神などに捧げる文言)ではあるのですけれど、単に人間の驚きや喜びを直接に指し示す語のようにも思えてきます。英語圏の人たちは、驚いたときに「Oh my God!(ああ私の神よ!)」とうっかり洩らしますが、「ハレルヤ」も文脈としては実に単純で、現代の日本語の言い回しで言うならば「ヤベえ!」「パねえ!」と叫んでいるに等しいのかもしれません。
歌が言葉の文脈から解放されるとき、そこには「魂の叫び」だけがその上澄みとして立ち現れます。ハレルヤの合唱は、その魂の叫びがたくさんの人々によって同時に、しかも同じベクトルに向かって発せられるのですから、文脈や意味などよくわからなくても、なにか頭をガツンと殴られたような、そういう気分になるのも当然であるような気がするのです。
これこそが音楽の持つ本来の力だと信じるのですけれど、たいていの歌曲にあっては、そのような音楽の凶暴性を前面に押し出すことはできません。多くの歌曲は世俗的な(あるいは、日常の論理と因果律の中にある常識的な)歌詞を伴うため、そうした音楽の凶暴性とは相容れないのです。ですから、歌曲における音楽の多くは、あくまでも節度のある、抑制的な範囲の中にいます。そうでないと、音楽は歌詞の意味世界を完全に破壊し、なんだかよくわからない混沌を作り出すことになります。つまり、多くの歌曲にあっては、歌詞が主で、音楽が従の関係にあるのです。
日本の宗教音楽
このアルバムは、日本の伝統的な信仰に基づく、現代日本の宗教音楽を作ることを企図しています。日本には古来より、神や仏など、超越的な存在に対する畏敬の念や信仰はあるのですから、キリスト教の宗教音楽に対峙しうる宗教音楽を構築できるはずです。信仰に基づく歌詞は世俗的な歌詞と異なり、その神秘性から音楽本来の力を解放できるような気もします。
もちろん、日本にも数多くの伝統的な宗教音楽が存在します。神道には、神楽(かぐら)がありますし、仏教には、さまざまな打楽器群を伴う読経や、声明(しょうみょう)や和讃(わさん)といった歌もあります。このアルバムでは、それらの歌を私なりに分析した成果も含まれています。ですけれど、そうした日本の伝統的な宗教音楽はどちらかと言えば内向的で、西洋のキリスト教音楽にあるような威圧的で圧倒的なものを志向していないのようなのです。これはおそらく外敵のない島国にあって、そうする必要がなかったからかもしれません。
そこで、このアルバムでは日本の伝統的な歌や宗教歌を西洋音楽の方法論で再解釈し、再構築するということを試みています。けれど、やみくもに試せば、前衛的で奇妙なものになってしまうので、多くの部分では従前の保守的な方法を固持しています。そこにほんの少しだけ新しい要素、とはいえ、その部分は根本的に西洋とは考えの異なる日本的な異物を混入してあるのです。そのように実験の範囲を限定的にすることで、J-POPや西洋音楽に慣れた人にあっても、わかりやすい平易な音を目指したつもりです。
神仏習合
「神仏習合」とは、日本の土着の信仰である神道と、外来の信仰である仏教とが混交し、1つの信仰体系として再構成されたさまを言います。神か仏かと区別するのではなく、神も仏も奉じる、あるいは、神と仏を同一視する信仰の形です。こうした信仰こそが、日本古来の信仰であったようなのです。
このようなおおらかな信仰の形は、直ちに生じたわけではなさそうです。仏教が伝来した直後には「神か仏か」という論争が巻き起こりましたし、それは時の政権を揺るがすほどの大きな争いや暗殺事件にまで発展しています。厩戸皇子(うまやどのみこ:のちに「聖徳太子」と呼ばれることになる人物)の時代に一応の決着がつき、仏教の受容が定められます。けれども、その以降も、重なる疫病や災害などの原因を「神の祟り」とする人々はたくさんいたのです。その争いに終止符が打たれ、「神も仏も」という信仰に向かうのは、壬申(じんしん)の乱によって、その政敵をほぼ制圧した天武天皇の時代からのようです。
神仏習合のはじまり
天武は、天皇を中心とする中央集権体制を確立するべく、仏教を重視するとともに、古来より伝えられる神道も重視する政策をとりました。日本で初めての歴史書である古事記や日本書紀の編纂は、天武によって始められましたが、これはおそらく、古来の伝統が仏教によって塗り替えられてしまわないようにするための防波堤という役目があったのかもしれません。あるいは、仏教伝来以前より存在する天皇家の由緒の正しさを示すためだったのかもしれません。
つまるところ、天武は、仏教と神道の双方を庇護し、ともに国家の安寧のために祈るよう仕向けたのです。中国の道教に由来する陰陽道(おんみょうどう)もまた、暦を作成したり、占いを行ったりする組織として律令制の中に組み込まれ、道教とは異なる日本独自の発展のしかたをします。そうした宗教の庇護政策は天武以降、中世の各政権が受け継いでいきます。
そのような背景にあって、平安期にはすでに神仏を習合する風潮が生まれていたようです。のちに、神道は「死」に対する「穢れ」の思想から、死者にまつわる部分を仏教に委ねるようになります。やがて、「めでたいこと」は神に、「死にまつわること」は仏に、というふうに、自然と神仏の役割が分担されていきます。神道と仏教は対立するのではなく、相互に補完しあう、持ちつ持たれつの関係を結んでいくのです。
神社と寺
仏教には寺院を中心とする教団という組織がありましたので、時の権力者たちは、仏教教団を通じて宗教を把握しようとしました。つまり、神道や神社はおおむね、仏教教団によって管理されるようになっていきます。そうしたこともあって、神を祀る寺(神宮寺)なども、しばしば建立されるようになります。その傾向は、江戸期まで続きます。
特に江戸幕府は、戦国時代にたびたび生じた有力寺社の反乱を教訓に、寺社と対峙するのではなく、寺社を庇護する政策を採ります。具体的には、檀家制度を敷き、すべての人を寺社の檀家として所属させる代わりに、各寺社に対して、新たな信者を獲得することを禁じたのです。各寺社に戸籍制度を受け持つ役所のような役割を与えたとも言えますし、幕府の管轄下にある社会福祉政策を担う組織としたとも言えます。(江戸時代には、「駆け込み寺」とか「寺子屋」とか寺に関係するものがたくさんあります。)
神仏分離
けれども、黒船の来航を経た明治政府は、そうした宗教政策に対して大きく舵を切ります。神仏習合を廃し、神仏分離の政策を断行するのです。これは、徳川幕府がそうであったように、明治政府が日本へのキリスト教の流入を恐れたからです。徳川幕府は鎖国政策によってキリスト教の流入を防ぎましたが、開国を迫られた今はそうはいきません。明治政府は、西洋の帝国主義と対峙するには、西洋が奉じているキリスト教とは異なるもので、日本の民衆が団結していく必要があると考えたのです。
明治政府は、アマテラスの子孫とされるところの天皇を中心とする人工的な「国家神道」を推進していきます。この神道の体系は、江戸末期に、その当時にあっては当然にして禁書であったところの「聖書」を極秘裏に取り寄せてキリスト教を研究し、アマテラスを中心とするキリスト教風の神道の体系を考案した江戸期の国学者の論に従ったものであるようです。明治政府は、各寺社に対して、神を奉じるなら庇護するし、仏を奉じるなら好きにせよ、と通達します。特に神を奉じるとした神社にあっては、神仏をはっきりと分離するため、境内にある仏教由来の建物は徹底的に撤去されました。たとえば、仏舎利(ぶっしゃり:釈迦の遺骨の破片とされるもの)を安置するための五重塔などの仏塔、あるいは、そうした仏塔を模したモニュメントなどは、あとかたもなく撤去されました。
明治以来の「臣民」教育などにより、数十年ののちには、日本中がすっかり「国家神道」に染まります。けれど、第2次世界大戦の敗戦のちには、戦勝国である連合国は、当然にして、この「国家神道」を廃止させます。そのようにして、信仰の自由を謳う新憲法が制定されるのです。
日本人の多くが「無宗教」を自負するという(世界的には特異な)国民性は、このような歴史的な経緯を踏まえると、それほど不思議なことではないのかもしれません。
現代に連なる信仰の系譜
たしかに、日本人は、キリスト教者が「私はキリスト教者である」と自負するような形では、宗教を意識していません。けれど、日本人たちがもともと持っていた信仰の形は、「なにかよいと思うものを各自の好むように(好き勝手に)奉じる」というものでした。そのように考えると、自分の好きな特定の漫画やアニメや映画やゲームの作者や、小説家や絵師、歌手や声優や俳優、キャラクターなどを「神」として崇め、奉じるのは、とても日本的なあり方であるとも思うのです。
実際に存在する人を奉じることも、過去に生きていた人を奉じることも、架空の存在を奉じることも、あるいは、無生物(たとえば、自然物である山や、人工物である艦船など)を奉じることも、その境目は曖昧であり、その根源にある気持ちはそれほど変わるものではないのかもしれません。ポップカルチャーの文脈における「萌え」なる語に示 される情緒というものは、おそらくは、そうした次元におけるある種の感情を指し示す語であるようにさえ思えます。そのように考えるとき、日本古来の信仰のあり方と現代のそれは、根源において繋がっているように思えてきます。
「今」を生きる日本人として、古代の人々の信仰や思想を訪ねることは、自分たちのルーツを辿るとともに、明治期以降の西洋の影響を相対化して、客観的に捉え直すことにも繋がります。そして、実際、そのように考えて組み立てた、このアルバムの楽曲は、西洋音楽とも一定の距離を置き、また、日本の伝統曲とも距離を置く、古くて新しい音楽になったような気がしています。
合成音声による歌声
このアルバムは、そのすべてがボーカロイドによる合成音声によって歌われます。このアルバムがボーカロイドの歌唱による歌集になることは、最も始めに決定された「枷」です。むしろ、そこから、どのようなコンセプトがふさわしいのか、逆算して考えた結果の1つが、このアルバムなのです。
合成音声による歌声が「人声」ときちんと対峙できるにはどうしたらよいか。言い換えれば、「ああ、なるほど、この歌は人間が歌ってしまっては意味がない」と了解できる形で合成音声による歌声を提示することができるのか、という挑戦です。
合成音声による歌声は、今のところ、まるで人間のように歌うことはできません。そして、たぶん、これからもずっと、そうなることはないだろうと考えています。
声の発声の仕組みは、声帯と仮声帯による発振とその共振、口腔と鼻腔の2つに分かれる共鳴管、息によるノイズ…と極めて複雑な要素が絡み合っています。そして、人声を聴くために進化してきた我々の脳は、それらの声を、極めて厳密に聴き分けることができるのです。
たしかに、膨大な時間をかけてデータを調整し、人間の歌唱をトレースすることはできるし、そうすればかなりの部分で似せることはできます。けれど、それはあくまでも模倣でしかありません。実際に人声を録音してしまえばよいだけのことで、そのトレースにどれだけの意義があるのか、私にはよくわかりません。
けれども、人間の歌唱のトレースを、まったくもって人間とは似つかわない声に対して適用するのであれば、その意義はあります。たとえるならば、映像のSFX で、人間の表情の演技を録画し、モンスターの3D データに対して、その表情をトレースするというような使い方です。ようするに、その最終的なアウトプットが「人間そのもの」ではなくて、「人間に似たモノ」であるならば、トレース、あるいはトレースに類するやり方にも意義が生まれます。人ならざるモノを擬人的に表現するときには、トレースの技法は際立ちます。
人と人ならざるモノの間
「人間に似たモノ」が歌うという状況があれば、合成音声による歌声にも、ある種の意義が加わるのではないか。人に似ているけれども人ではない存在、たとえば、神とか悪魔とか、精霊とか霊魂、そうした「擬人化」された何かの声として合成音声が提示されるなら、多くの人にとってすんなりと受け入れられる余地があるかもしれない。
そうした「人ならざるモノの声」は、古くは(そして今も)、「呪術的な声」として表現されてきました。わざと日常的な声の使い方をせず、極端な音の高さをとったり、あるいは逆に音の高さの変化をなくしてしまったり、発音が曖昧になるように仮面をつけたりする、そうした声です。
たとえば、日本の神道の祝詞(のりと)にしろ、仏教の読経にしろ、日常会話のようには語られません。音の高さの変化を抑制した特殊な詠唱法で奏上されます。そうすることで、その祭文の音韻に日常会話とは異なる特別な雰囲気をまとわせているのです。現代科学が軽視してきた、そのような呪術的な声が、現代科学の粋を集めた合成音声と重なるとき、なにか新しい化学反応が起こるのではないか、そのように考えるのです。
祭文の謂れ
このアルバムの各楽曲の歌詞には、神道や仏教にある既存の祭文や、日本の神話や、仏教の逸話に由来するものが多々あります。各楽曲ごとに、その謂れについての説明を述べておきました。けれども、作曲者としては、それらの説明はあまり重要ではありません。その音韻と音楽の中に立ち現れる、奇妙な感覚そのものを直接に感じて頂くことが目的なのですから。
とはいえ、もしかしたら、それだけではどう聴いてよいのか困る人もいるかもしれませんし、文脈もわからずに謎の言葉を聴くことが苦痛な人もいるかもしれません。そういう人のために、その祭文が持つ信仰の文脈などを少しだけ説明しています。
祭文の多くは、その解釈に諸説あり、これはこうというというはっきりしたことがわからないことが多いようなのです。それだからこそ、その祭文には神秘性が宿り、現代にまで受け継がれてきたのでしょう。そうではあるのですけれど、その祭文のおおまかな文脈や私なりの解釈について、その概要の説明を試みています。これらの説明がこのアルバムの鑑賞において、なにかしらの役に立てば幸いです。