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02 禊祓(みそぎはらえ)

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詞:神道祭文による
曲:tamachang [結月ゆかりV4(純・凛・穏)]




歌詞

トホカミエミタメ

高天原に神留坐す 神漏岐 神漏美の命以ちて
(たかまがはらに かむづまります かむろぎ かむろみのみこともちて)

皇親 神伊邪那岐の大神
(すめみおやかむいざなぎのおおかみ)

筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に
(ちくしのひむかのたちばなのおどのあわぎはらに)

禊祓い給う時に生坐せる祓戸の大神等
(みそぎはらいたまうときに なりませる はらえどの おおかみたち)

諸々の禍事 罪 穢を
(もろもろまがごとつみけがれを)

祓い給え清め給えと白す事の由を
(はらいたまえ きよめたまえと まおすことのよしを)

天津神 地津神 八百万神等共に
(あまつかみ くにつかみ やおよろずのかみたちともに)

天の斑駒の耳振立て聞食せと畏み畏みも白す
(あめのふちこまのみみふりたてて きこしめせと かしこみかしこみまおす)

(現代仮名遣いで表記)

詞について

禊祓(みそぎはらえ)は、神道思想の中心を成す祭文で、現代においても、しばしば奏上される祝詞。但し、神道における祝詞は、祝詞を奏上する神主自身が、その目的に応じて書くのが通例のようで、祭文としては固定されていません。定型の祭文も流布していますが、宗派などによって固有名詞の読み方や送り仮名などに細かな異同があるようです。この祭文の大意を示すと、次のようになります。

高天原に住まうカムロギ(男の神)とカムロミ(女の神)をもって、
イザナギが、筑紫の阿波岐原の地で川に入り、その穢れを清めたときに生まれた祓戸の大神(穢れを清める力を持つ神)に、
諸々の災い、罪、穢れを、天津神(高天原を治める神)、地津神(地上を治める神)、八百万の神たちとともに、祓い、清めてくれますようにと、
天の斑駒(スサノオが乗っていた馬:耳がよく聴こえたとされる)の耳をそば立てるように聴いてくださるように、かしこまって申し上げる。

祓戸の大神

要約すると、「祓戸の大神に、災いや罪や穢れを、八百万の神たちとともに清めてくれるようお願い申し上げる」という内容。けれども、この祝詞の真意は、イザナギが「祓戸の大神」を生んだときに清めたとされる「穢れ」の内容を理解しないことにはうまく汲み取れません。「祓戸の大神」は、古事記の伝える、以下のエピソードの中で生まれたとされています。

イザナギは、その妹であるイザナミと夫婦となり、海の中に、島(日本の国土)を生む(詳しくは「8.ひふみ祝詞」で触れる)。そののち、イザナミは火を産むが、陰部にヤケドを負って死んでしまい、黄泉(よみ)の国(地下にあるとされる死者の国)へと隠れてしまう。

イザナギは、妹の死を嘆き、妹を求めて、黄泉の国を訪ねる。が、イザナミの体はすでに腐敗しており、恐ろしい姿となっていた。イザナギは、変わり果てたイザナミを見て、離縁を告げるが、イザナミはわが身の醜さを恥じて恨み、兄を殺そうとする。イザナギは、イザナミの追手を振り払って逃げ切り、地上から黄泉の国へと繋がる穴を大きな岩で塞ぐ。
兄を殺し損ねたイザナミは兄に呪いをかけ、「生きる者たちとその子孫を毎日のように殺す」と告げる。それに対し兄は、「お前が殺すよりも多くの命を生む」と応じる。(日本の神話は、このエピソードをもって、それまで不老不死であった神の世界に「死」という運命が備わったとする。)

その「死者の穢れ」を川で洗った(清めた)ときに生まれたのが、この祝詞に登場する「祓戸の大神」とされています。この「祓戸の大神」は一般に、川や海に住まう4柱(神の人数は「柱(はしら)」と数える)の女神とされ、穢れは、川の神によって海に流され、海の神に呑みこまれ、風の神に吹き飛ばされ、最終的には、海底(根の国)に住まう神によってさすらい失われる、と考えられているのです。

つまり、「穢れ」という概念は、死を中心としたもの、また、「祓う」という概念は、清らなもの(たとえば水)によって、死に関連する事柄を取り除くこと、ということです。さらには、イザナミの「生者を殺す」という呪いは、死者の「恨み」が生者に死をもたらすことを意味します。平たく言えば「祟り」の思想です。だから、死者は祀らねばならないし、生きている人に対しても、恨みを持たれるようなことはしてはならない、と考えます。このような倫理観と死生観が、古代の日本の思想、つまり神道の根幹を成すものであるようなのです。

古代においては、「キ」は男、「ミ」は女を表します。たとえば、カムロ「ギ」とカムロ「ミ」。イザナ「ギ」とイザナ「ミ」(「イザナ」は「いざなう」の意)。これは、古事記に記載されている神々の名前からすぐに連想できるものです。 「キミ」というとき、そうした語源から類推するに、原意としては「男と女=すべての人」の意であるという説がまことしやかに語れられることもあります。「男と女=すべての人=尊い人=キミ=you」。もし、それが、すべて同じ語源に基づくものなのだとしたら、少し素敵な感覚がします。結局のところは、よくわからないようなのですけれども。

楽曲について

そうした複雑な文脈を踏まえた上で、この祝詞を解釈するとき、古代人たちが抱いただろう自然への畏敬の念や、一心不乱に祈りを捧げる巫女の光景を想起しないではいられないのです。死と、それにまつわる将来に対する不安と恐怖。そうした「穢れ」を取り除いてくれるだろう神たち(別の言い方をすれば自分たちの祖先)への信仰。このイメージを、現代の修辞法で示すとしたら、どうなるだろうか。この楽曲の企図はそこにあります。そのとき、現代のRPGゲームの中にいる召喚士(それはたいてい若い女である)の姿、たとえば、恐ろしき海獣たるリヴァイアサンを召喚する乙女の姿を想起するのです。

静寂の中、シャーマンたる巫女は、「トホカミエミタメ=遠くの神、笑み給え」と静かに唱え始める。遠くから、その声の木霊が返ってくる。さらに祭文を繰り返し唱えると、どこからともなく風が吹き、木々がざわめき始める。やがて、巫女の声ではない低い何者かの声が響く。巫女は、海の遥か彼方から訪れた「祓戸の大神」をその場に招くべく、鈴を振る。「神降ろし」の太鼓が響き渡る。

巫女は「祓戸の大神」に対峙し、「トホカミエミタメ」と呼びかける。大神は、その声に応じるように、八百万の神々を引き連れ、その全容を巫女の前に現す。地に轟く大神の呻き声。すべての「穢れ」を呑み込むことができる「祓戸の大神」は、おそらく巨大で、もしかしたら、その全容は巫女の視界には納まり切らないのかもしれない。巫女は、その大神を目の前にして、この禊祓の祝詞を奏上する。大神は、巫女を間近にして睨みつけるが、巫女は、怯むこともなく、決然と、その願いを伝える。 「祓戸の大神」は巫女の願いを聞き入れ、大地に沁みついた「穢れ」を呑み込み、去っていく。巫女は、大神を見届け、大神に対する感謝と畏敬の念を静かに捧げる。そのようにして再び、元の静寂が取り戻され、穢れ(ケ枯れ)のない日常(ケ)が取り戻される。

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