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05 千萬神の神集ひ

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詞:柿本人麻呂(万葉集より)
詞補作・曲:tamachang
[猫村いろはV4(Natural) & SF-A2 開発コード miki V4 & 結月ゆかりV4(純)]


歌詞

天地の 初めの時の ひさかたの 天の河原に 八百萬
千萬神の 神集い(かむつどい) 集いいまして 神分かち(かむあかち)
分かちし時に 天照らす 日女の命(ひるめのみこと) 天をば
知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の

※ 天地の 寄り合いの極み 知らしめす 神の命(みこと)と
天雲の 八重かきわけて 神下し(かむくだし) いませまつりし

春花の 貴くあらむと 望月の 満わし(あたわし)けむと 天の下
四方(よも)の人の 大船の 思い頼みて 天地の



日向に霧島 五十鈴は伊勢に 出雲に諏訪に 熊野の那智に
金剛 葛城 榛名に赤城 比叡に摩耶に 日吉に住吉
羽黒に鳥海 妙高 金毘羅 愛宕(あたご)に秋葉に 天満 八幡
龍田に香取に 春日に宗像(むなかた) 伏見の稲荷
木曽の御嶽 白山 富士も



(現代仮名遣いで表記)

詞について

歌詞は、万葉集にある柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の長歌からの引用です。長歌とは、5文字による最初の句の後、5・7・5・7…と繰り返し続く定型詩で、万葉集には多くみられるのですが、中世以降は、あまり詠まれなくなったようです。

短歌は、恋文の代わりとするなどの個人的な事柄を詠むことが多いのですが、長歌はそうではなく、たいていは天皇などの依頼に応じて作られ、なにかの公の場で詠まれたようです。万葉集に含まれる長歌のほとんども、なにかの儀式の際に詠まれたもので、その儀式とはたいてい、天皇家に関連する葬儀の歌です。

この長歌も葬儀のためのもので、天武天皇の皇太子が若くして亡くなったときに詠まれています。原詩では、前半に、神話から続く天皇の由緒が語られ、後半に、そのような由緒のある皇太子の死を悼む内容になっているのですが、この楽曲では、前半部分の一部を抜粋しています。抜粋した部分の大意を示すと、次のようになります。

天地の初めのときに、天の河原に八百万の神々が集まり、
それぞれの神が治める領分を分けた(神分かち)ときに
ヒルメ(アマテラスの別名)は、天を治め、
葦原の瑞穂の国(日本の別名)を天と地の寄り合う果てまでも治める神は、
幾重にも重なる雲をかきわけて降りてきて、今そこにいる
春の花のように貴く、望月のように満ちた天下になるだろうと
多くの人が大船に乗ったような気分になって

「日向に霧島…」以降の囃子の歌詞は、作曲者が付け加えたもので、日本各地の霊峰や神の名の「連ね」になっています。日本各地には、まさに八百万の神々がいるのです。

楽曲について

テクノ風の現代的な音にしてありますが、その基本構造は、シャッフル(1拍を3等分するリズム)による2/4拍子で、ようするに盆踊りのリズムです。岐阜に「白鳥(しろとり)おどり」という伝統的な盆踊りがあるのですが、その楽曲に着想の多くを得ています。白鳥おどりは、かなり速いテンポの楽曲で、老若男女を問わず、多くの人たちが踊りに参加し、3日3晩を徹夜で歌い、踊り明かすと言う熱狂的な盆踊り。白鳥おどりに限らず、地方都市の祭りは、熱狂的なものが少なくありません。

日本の民謡の多くは、7・5調の歌詞を繰り返す独唱と、囃子声の合唱によって構成されています。盆踊りの歌もまた、そのような形式の中で歌われるのですが、その囃子声は、踊っている群衆によって発せられます。群衆が一体となって踊り、一体となって声を発するとき、圧倒的で熱狂的な祝祭の空間が立ち現れるのです。そのような祝祭の音を聴くとき、私はいつも、なにか揺さぶられるような思いがします。

お盆

「お盆」は、古代より日本に伝わる祖先を祀る祭りと、仏教に由来する盂蘭盆会(うらぼんえ)とが混交した行事とされています。けれど、盂蘭盆会という習俗は仏教の発祥地であるインドにはありません。仏教も含め、インドの死生観では、魂は死後、別の生命へと直ちに輪廻するので、先祖の霊という概念がないのです。一方、中国には古代から先祖を大事にせよとの儒教の思想があり、先祖を祀る風習があります。盂蘭盆会なる行事は仏教に由来するとはいえ、どうやら中国で作られたものであるようです。

いずれにせよ、「お盆」は、現代の日本においても特別な期間です。多くの会社が一斉に休暇をとり、多くの人が故郷に帰省して、墓参りや法事をします。そして、先祖の霊を家に迎え入れ、盆踊りを踊る。これは世界的に見ても、かなり風変りな文化なのかもしれません。

神道としての盆踊り

そのようなことを考えるとき、盆踊りは、どうにも古代日本の信仰が、現代に脈々と受け継がれたものであるかのように感じられるのです。だから、その歌は、八百万の神々を讃えるものであってもよいはずで、少なくとも、仏の話よりは、神々の話のほうが相応しい気がします。

そしてまた、そのように考えるとき、その歌詞は、アマテラスを中心とした天皇家の祖先への礼賛に留まるべきではなく、それぞれの地に根付いている八百万の神々への礼賛であることのほうが相応しい。だから、柿本人麿の長歌に、霊峰を中心としたさまざまな神々の連ねを歌詞として加えたのです。

古代より日本人は、高く聳える山々に神を感じ、山そのものを神体としてきました。そして、今もなお、多くの山岳信仰が伝えられ、残されています。それらの山々は、現代においては、神道や仏教の枠組みの中で、霊峰として解釈されてはいるのだけれど、元を辿れば、古代の日本人たちが崇拝した山々たちなのです。幾千年もの間、そこに鎮座している山々は、今も昔も、そこに聳え立っているのです。

そして、今、その山の名を持つ戦艦の娘たちがネットゲームの中で活躍しています。それらの娘たちの中に、日本の古来よりの神性を垣間見る人がいても、それほどおかしなことではないと思うのです。

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