田廻音楽事務所ロゴ

On Sale

ホーム > On sale > VOCALOID 神仏習合 > 03 般若心経

03 般若心経

iTunes楽曲販売ページはこちら(一部試聴可)

詞:般若心経(玄奘三蔵訳)による
詞補作・曲:tamachang [猫村いろはV4(Natural & Soft)]




歌詞

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子
是諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減
是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無知亦無得
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多 故心無圭礙 無圭礙故無有恐怖
遠離一切転倒夢想 究境涅槃 三世諸仏
依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯帝羯帝波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶
般若心経

オン アロリキャ ソワカ
聴け 舎利子(しゃりし) こよなき智慧(ちえ)を 現(うつつ)は洞(うろ)なり
増えず滅びず 知るも得(う)るも無し
怖れも洞なり 心の焔(ほむら) 吹き消す 大いなる詞(ことば) 往(ゆ)け

詞について

日本の仏教において、最も広く知られる経典。仏教は、紀元前の北インドの辺境の小国を治めていたシャーキャ(釈迦)族という部族の皇子であったシッダールタという人物によって創始されたとされる「教え」とされています。

日本に伝えられた仏教は、インドからヒマラヤ山脈を避けて北西に向かい、中央アジアを経て東に向かい、中国、朝鮮半島を経て伝えられたもので、「大乗仏教」とか「北伝仏教」とかと呼ばれる一派の中にあります。北伝仏教は、その遠い道のりを辿るにあたり、各地域の土着の文化や信仰が混交したため、かなり複雑な、言い換えれば、国際色の豊かな信仰となったようです。

その大乗仏教にあって、最も重視される思想の1つが「空(くう)」というもので、その「空」の思想のエッセンスをごく短い文に示したのが、この般若心経であるとされています。

般若心経

般若心経は、観自在菩薩(観音菩薩とも)が、その弟子である舎利子(シャーリプトラ:シッダールタの高弟と伝えられる人物)に語った言葉として書かれています。しかし、現代の仏教研究によれば、おそらくこのテキストは、シッダールタではない誰かによって創作されたものであることは間違いがないようです。いつ誰がこのテキストを創作したのかはよくわかっていません。けれども、この経典は日本だけに留まらず、大乗仏教の伝えられた広い地域で愛され、唱えられています。

現在、日本で読経される般若心経は、サンスクリット語(古代から続くインドの宗教である「ヴェーダの宗教(「ヴェーダ」という古代インドの聖典に依拠するバラモン教とその系譜にあるヒンドゥー教など)」の祭文を口伝するための特殊な言語)から漢訳されたものです。その漢訳にもいくつかが伝えられているのですが、日本ではたいてい、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう:「西遊記」に登場する三蔵法師のモデルとなった実在の人物)によって漢訳された漢文が用いられています。

この経典の意味する文脈はかなり複雑です。少しだけ、かいつまむと以下のようになります。

シッダールタの死後、彼の思想は、後世の弟子たちによって解釈されることなり、さまざまな分派を生むことになります。当初の主流派は、「説一切有部(せついっさいうぶ:一切は有ると説く部)」と呼ばれる一派で、これは、シッダールタの思想を、当時のインドに存在していた既存の哲学的な世界観の中で再解釈しようとした一派です。

般若心経の経文にある「五蘊(ごうん)」とは、説一切有部が提示していた概念で、心の中に存在しているように感じられる5つの蘊(塊)のことを指します。具体的には、「色(肉体)・受(感覚)・想(認識)・行(意志)・識(それらを統合する意識)」の5つです。説一切有部は、これらは実際に存在し、「一切は有る」と考えていました。

大乗仏教は、説一切有部への批判として提示された新興解釈で、「五蘊」はそもそも存在しない、とします。つまり、「一切は(そもそも)無い」と考え、「一切は無い」のだから、心に生じるあらゆる苦しみもまた、(そもそも)無い、という論理を説きます。その思想が「空」です。

さて、この違い、よくわからないかもしれません。私もよくはわかっていませんが、私なりの理解はこんな感じです。

「一切が有る」とすると、修行して悟りを拓くことも当然に「有る」のです。一方、「一切が無い」とすると、修行して悟りを拓くことは「(そもそも)無い」のです。つまり、修行をすると「一切が無い」ということを理解できるようになる、というだけのことで、修行をしようとしまいと「一切が無い」ことには変わりはありません。と考えると、「すべての人は最初から救われている」と考えることもできます。大乗仏教は、出家信者だけなく、在家信者をも悟りに導こうとする一派なので、この論理が効いてきます。

諸仏と火

さて、そうした大乗仏教なのですけれど、インドの北西の位置にあたる中央アジアの地に至ったときに、大きな変革がなされたらしい。つまり、仏教は、その地で古代ギリシアと古代ペルシアの文明と出会い、古代ギリシアの彫像の文化を仏像の創作とその崇拝として組み込み、古代ペルシアのゾロアスター教の信仰を多種多様な仏(神々)と火への崇拝として組み込みます。

大乗仏教には、如来(にょらい)、菩薩(ぼさつ)、明王(みょうおう)、天部(てんぶ:たとえば「弁才天」というようなときの「~天」という名前のもの)とたくさんの種類の仏がいますが、これらはどうやら、インドや中央アジア、あるいは中国などの土着の神々が姿を変え、仏教の中に混ざり込んだものであるようなのです。また、火と関係の深い明王と呼ばれる一連の仏や、護摩(ごま:火を焚いて読経する儀式)は、ゾロアスター教の拝火信仰の名残りとも考えられるようなのです。

火(と牛)への崇拝は、もとを辿るとアーリア人と呼ばれる中央アジアの遊牧民たちの信仰であったようです。アーリア人は紀元前のかなり古い時期に、ペルシアとインドに侵入し、そこで暮らすようになります。アーリア人の信仰は、ペルシアではゾロアスター教に、インドではヴェーダの宗教になっていきますが、その2つが長い年月を経て、中央アジアの地で再び出会うのです。ヴェーダの宗教もまた、火に供物を捧げる儀式を行っていました。

楽曲について

この楽曲は、真言宗の護摩焚きにおける読経の法楽(ほうらく)太鼓の響きに霊感を得ています。法楽太鼓とは、読経の際に演奏される和太鼓のことで、その起源はよくわからないのですけど、おそらくは、神道の儀式で使用されていた和太鼓が、仏教に取り入れられたものなのではないかと思います。諸外国の仏教の読経では、和太鼓のような大型の太鼓が用いられることは、ほとんどありません。

日本の後世の各宗派での読経では、木魚を叩くことによって拍をとることが多いのですが、真言宗ではたいてい拍子木によって拍をとります。拍子木による甲高い音、和太鼓の重低音、火の燃えるパチパチというノイズ、そして声。これらが同時に鳴ると、ヒトの可聴範囲にあるすべての周波数帯域が同時に響くことになります。そのことによって、簡素な音の重なりでありながらも、実に迫力に富む、印象的な音響空間が構築されるのです。それが巨大な寺院の室内で奏上されることにも意味があります。野外で奏上するのとは異なる、豊かな残響音がさらに印象的な音響空間を彩るのです。

一方、真言宗などの密教(ヒンドゥー教の信仰と混交した仏教)の系譜にある宗派では、「曼荼羅(まんだら)」と呼ばれる仏画を重視します。曼荼羅は、釈迦の化身である如来などを中心に据え、その周囲に無数の諸仏を規則正しく配置して描いたもので、密教の重層的な世界観を象徴的に表現したものであるとされます。

この楽曲で描こうと試みているのは、この曼荼羅の音像です。護摩において読経する尼僧は、自分の声とともに、堂に響く己の声を聴きます。やがて、堂に響く声は幾重にも重なり、奇妙な響きが作り出されていきます。そして、その複雑な声の重なりの中に、経文には存在しない「別の声」が立ち現れます。観自在菩薩の真言(マントラ:呪文)であるところの「オン アロリキャ ソワカ」。そして、日本語で心に直接に語りかける何者かの声。

この日本語の歌詞は、般若心経の伝える内容の骨子を作曲者が意訳したものです。涅槃(ねはん)は、一般に、サンスクリット語の「Nirvana(ニルヴァーナ)」の音訳とされるのですけれど、その原意は、「炎を吹き消す」というようなニュアンスなのらしい。炎を吹き消すように心を吹き消した状態が、悟った状態ということなのでしょう。

Go TOP